
ページを開いて、『読む深呼吸』をしませんか。
住職のまっすぐな言葉と、寺嫁のまあるいイラストで、今日が優しく調う、ほっとする時間をお届けします。
見えなくても心はつながっている
【通貫十方 じっぽうに つうかんす】

私たちを結ぶ「心の根っこ」 観音山のタケノコ掘りで見つけたもの
静岡市清水区にある東光寺には、「観音山」と呼ばれる標高50メートルほどの小さな山があります。その名の通り、頂上には観音様がお祀りされており、四季折々の自然が豊かな場所です。
ある春の日、私はまだ幼かった二人の子供を連れて、この山へタケノコ掘りに出かけました。
山に入り、地面からわずかに顔を出したタケノコを見つけると、子供たちは目を輝かせました。大人がタケノコを掘る時は、鍬(くわ)を使って周りの土を豪快に跳ね飛ばしてしまいますが、初めてタケノコを掘る子供たちは違います。宝物を扱うように、小さな手とスコップで、本当に少しずつ、丁寧に土をよけていきます。
しばらくすると、一人の子供が弾んだ声を上げました。
「あ! たけのこの赤ちゃんがいた!」
覗き込んでみると、今掘り進めているタケノコのすぐ隣から、さらに小さなタケノコが顔を出していたのです。子供たちはさらに夢中になり、二つのタケノコの周りを丁寧に掘り続けました。
すると、再び大きな歓声が上がりました。
「あー、つながってる!」
二つのタケノコのさらに奥、土の深いところで、太い地下茎(根っこ)が一本に繋がっているのを発見したのです。初めて見るその光景に、子供たちは驚き、そして感動した様子でした。
竹という植物は、地上に出ている部分だけを見れば、一本一本が独立して生えているように見えます。しかし、見えない土の下では、実は根っこで縦横無尽に結ばれています。
地上で青々と茂っている親竹は、太陽の光を浴びて一生懸命に養分を作ります。そしてその養分は、地下茎に蓄えられ、時期になるとタケノコは力強く芽を出し、成長することができるのです。一見バラバラに見えても、その命の根源は繋がっている。その当たり前で神秘的な事実に、私自身も改めてハッとさせられる体験でした。
禅語【通貫十方】が説く、心の広がり
この「地下で繋がっている」という姿は、禅の教えにも通じているように感じます。禅の言葉に、【通貫十方(じっぽうにつうかんす)】というものがあります。
『臨済録(りんざいろく)』に、
「心法(しんぽう)は形無くして十方に通貫す」
とあるのです。
「十方」とは、十の方向、あらゆる方向、つまり「この世界すべて」を指します。
「通貫」とは、文字通り貫き通し、通じていること。
つまり、私たちの「心」というものには決まった形はないけれど、それは自分という小さな器に閉じ込められているものではなく、この世界をあまねく貫き、あらゆる場所に広がっているのだ、という教えです。
【通貫十方】と、あの観音山のタケノコは同じ姿ではないでしょうか。
私たちは普段、自分という人間を「他とは切り離された、たった一人の存在」として捉えがちです。顔も名前も違い、別々の場所で暮らし、それぞれが自分の力だけで歩んでいるように見えます。時には、誰にも理解されない孤独や、社会からの断絶を感じることもあるかもしれません。
しかし、それは地上に出ている「竹」だけを見ている状態です。
実際には、私たちは目に見えない「心の根」で、他者や世界と深く繋がっています。
私たちが今日口にした食事、身につけている衣服、安心して眠れる場所。
それらはすべて、顔も知らない誰かがどこかで流した汗や、創意工夫の結果として、私たちの元へ届けられています。
そして、私達が誰かにかけた何気ない一言や、真面目に取り組んでいる仕事もまた、目に見えない根っこを伝って、いつかどこかの誰かを支える養分となっているのです。
「自分は一人で生きている」というのは、地上の景色だけを見た錯覚かもしれません。見えない土の下では、誰もが「おかげさま」という大きなつながりの中にあり、互いに支え、支えられ、生かし合っているのです。
【通貫十方】という言葉は、私たちが孤独に陥りそうな時、
「あなたは決して孤立した存在ではない。目に見えない深い場所で、すべてと繋がっているのだ」
と力強く励ましてくれているようにも感じます。
今回の絵葉書はこれらの姿を絵にしたものです。
「見えなくても心はつながっている」
自分の心がふと狭くなってしまった時、あるいは孤独を感じた時、このタケノコたちの姿を思い出してみてください。
私たちの心は、形がないからこそ、どこまでも広がっていけます。
なかなか見ることはできないけれど、竹が根っこで繋がっているように、私たちもまた、目に見えないご縁で結ばれた大きな命の一部なのです。その繋がりに気づき、感謝することができたなら、目の前の景色はまた少し違った、温かいものに見えてくるのではないでしょうか。
通貫十方〔十方に通貫す〕
すべての場所を貫いていること。あまねく広がっていること。『臨済録』の「心法は形無くして十方に通貫す」《心というものには形がないけれども、十方世界を貫いている》を出典とする語


