今日を調えるやさしい仏教 ~絵はがき法話~バナー

ページを開いて、『読む深呼吸』をしませんか。
住職のまっすぐな言葉と、寺嫁のまあるいイラストで、今日が優しく調う、ほっとする時間をお届けします。

ここまで登るのに大事だった荷物。その荷物下ろしたって君は君。 
【一無位真人 いちむいのしんにん】

ここまで登るのに大事だった荷物。その荷物下ろしたって君は君。

娘達が小さい頃に、「ありの~ままの~」と声をそろえて歌って楽しんでいました。

「ありのまま」と言う言葉を聞くとある映画やその主題歌を思い出す人もいらっしゃるのではないでしょうか。

日本でも大ヒットした『アナと雪の女王』というディズニーの映画です。日本国内だけでも映画館でこの映画を見た人はのべ2000万人を突破し、DVDはすでに200万枚以上が売れているそうです。

私がこの映画の存在を知ったのは、意外にも東光寺(静岡市清水区横砂)の本山である妙心寺(京都市右京区)でした。

則竹秀南老師と『アナと雪の女王』

本山である妙心寺で2週間にわたって行われた法話の研修会に参加させていただいたときのことです。

その研修の中で、妙心寺内にある霊雲院の当時の御住職 則竹秀南老師のお話を聞かせていただくことがあったのですが、その時に紹介をしてくださったのがこの「アナと雪の女王」でした。

老師はこの映画の中で登場する歌の歌詞についてお話をされていました。

特に

ありのままの 姿見せるのよ

ありのままの 自分になるの

何も恐くない

風よ吹け

少しも寒くないわ

悩んでたことが嘘みたいね

だってもう自由よ

何でも出来る

という部分についてお話をしてくださいました。

この映画は二人の姉妹のきょうだい愛を描いた作品で、幼いころから魔法を使うことができる姉が、仲良く遊んでいた妹に誤って魔法で怪我をさせてしまい、魔法を使わないことを誓い、他人にも魔法を使えることを気付かれないように生活をする場面から始まります。

しかし、魔法を使えることを隠すために人との接触を極端に避けて生活するため、様々な弊害も生じてしまいます。

そして長い月日がたったある日、姉は人前で魔法を使ってしまいます。

悩んだ姉は、周囲に迷惑が掛からないように山へ登り、そこで自分の力を発揮して生きていくことを誓ったときにこの歌が流れるのです。映画はその後、2人の姉妹がお互いに思いやる慈しみの気持ちに気がつき、笑顔で終わります。

則竹秀南老師は次のようにお話してくださいました。

「この歌の歌詞は大変素晴らしい。ありのままの自分を出すことは良いことだ。しかし、ありのままの自分を出すと言うことは、その前に自分自身の心が清浄でなくてはならない。欲望にあふれたありのままの自分自身など出してもらっては困る。あくまでも清浄な心があり、その清浄な心をありのままに出すことが大切なんだ。」

と仰っていたと記憶しています。

本当の「ありのまま」

この老師のお言葉は、【一無位真人(いちむいのしんにん)】の教えと深く通じるものです。

【一無位真人】とは、『臨済録』という書物に記されている、臨済宗の宗祖・臨済義玄(りんざいぎげん)禅師の言葉です。

苦楽や迷いなどを超越して、何ものにも一切とらわれない、自由な境地のことを指します。

臨済禅師は、「我々のこの肉体には、名前も位もない真の自由人がいて、常に目や鼻や囗から出入りし、見聞きするものの中に絶え間なく現れ、活動している」と説いています。

「無位」とは、地位や肩書き、名誉、あるいは見栄やプライドといったものが全く無いことを意味します。

「真人」とは、真実の人間、つまり本当の自分のことです。

私たちは普段、社会の中で生きるために様々な鎧を着込み、「〇〇という役割」や「周囲からの評価」というフィルターを通して自分を保とうとしています。

映画の主人公が、魔法を使える自分をひた隠しにし、分厚い手袋をして心を閉ざしていたように、私たちも知らず知らずのうちに、本来の清らかな自分を心の奥底に閉じ込めてしまっていることが多いのです。

しかし、欲望のままに振る舞うわがままな姿を「ありのまま」と呼ぶのではありません。地位や名誉、執着といったものから離れ、純粋で清浄な心を持った自分こそが【一無位真人】であり、それを素直に表に出していくことが本当の意味での「ありのままの姿」なのです。

わたしたちは人生という山を登る中、たくさんの荷物を背負っている

今回の絵葉書には、山頂でリュックサックを下ろし、清々しい表情で風を感じているような”こまめ”の姿が描かれています。そして、そこに

“ここまで登るのに大事だった荷物。その荷物下ろしたって 君は君。”

という言葉を加えさせていただきました。

私たちは人生という山を登る中で、自分を守るため、あるいは誰かに認められるために、たくさんの「荷物」を背負い込んでいます。学歴、職歴、財産、世間体。これらは確かに、ここまで登ってくるためには必要な荷物だったのかもしれません。

だからといって、その荷物を肩から下ろしてみたとき、自身の価値がなくなるわけでは決してありません。地位や肩書きという荷物を下ろした裸のあなたであっても、「君は君」なのです。

重い荷物を下ろして深呼吸をしたとき、そこには何の飾りもない「一無位真人」が存在しています。

何かを手に入れたから立派なのではなく、何かを背負っているから偉いのでもありません。何ものにも縛られず、清らかな心で今ここを生きている者こそが、すでに尊い存在なのです。

どうぞ、ときどきは背負い続けてきた心の荷物をそっと下ろしてみてください。

そして、自分の中にある清浄な心に気づき、その「一無位真人」としてのありのままの自分を大切にしながら、日々の生活を軽やかに歩んでいっていただければと思います。


 【一無位真人 いちむいのしんにん】   『臨済録』

 苦楽や迷いなどを超越して、何ものにも一切とらわれない、自由な境地のこと。臨済義玄禅師は「我々のこの肉体には、名前も位もない真の自由人がいて、常に目や鼻や囗から出入りし、見聞きするものの中に絶え間なく現れ、活動している」と説いている。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です