今日を調えるやさしい仏教 ~絵はがき法話~バナー

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住職のまっすぐな言葉と、寺嫁のまあるいイラストで、今日が優しく調う、ほっとする時間をお届けします。

金のかけらでも目に入れば苦しみになる 流して流して楽になる 
金屑雖貴落眼成翳 (きんせつ たっとしといえども めにおつれば えいとなる)】

※翳:翳り(かげり) かげ・じゃま

観音山での一撃

東光寺(静岡市清水区)には、本堂から国道1号線バイパスを挟んで北側、徒歩数分の場所に「観音山」と呼ばれる標高50メートルほどの山があります。

頂上には観音様が祀られ、かつては地域の方々にも親しまれていましたが、長年管理をしてくださっていた方が亡くなってからは、竹や雑草が伸び放題の、いわゆる「荒れた状態」になっていました。

私が東光寺に戻ってきたとき、その光景に愕然としました。
竹は凄まじい生命力で空を覆い、足を踏み入れることすら困難な状況です。

それ以来、私は毎年数百本の竹を切り、山を整える作業を続けてきました。

しかし、切った後の竹の処理が問題でした。竹はなかなか腐りません。
積み上げられた竹の山を前に途方に暮れていた私は、意を決して本格的な粉砕機を導入することにしました。

この機械は実に画期的でした。

あんなに頑丈だった竹が細かいチップへと姿を変えていきます。そのチップは、併設する保育園の子どもたちが使う畑の肥料として再利用することができ、まさに「循環」の喜びを感じる作業でした。

しかし、機械には短所もあります。

水分を多く含んだものを入れすぎると、出口が詰まってしまうのです。
最初のうちは、詰まるたびにエンジンを止め、中の回転が完全に止まったことを確認してから清掃をしていました。

そうして何度も繰り返すうちに、私は機械の扱いに「慣れて」きました。

「あ、この音は詰まりかけているな」「この振動なら、あそこを掃除すればいい」

原因がわかり、対策がわかってくると、作業効率は劇的に上がります。山も少しずつ美しくなっていく。私は自分の作業に、ある種の自信を感じていました。

そんなある日のことです。いつものように機械が止まりました。「また出口の詰まりか」と、私はすぐにエンジンを止めました。

そして、何の迷いもなく、排出口に手を差し込んだのです。

その瞬間、指先にこれまでに経験したことのない衝撃と激痛が走りました。

エンジンは確かに切っていました。しかし、機械の内部は、まだ回転を続けていたのです。

過去の成功体験からくる「前もこうだったから大丈夫」「自分はこの機械を知り尽くしている」という思い込み。その慢心が、私の目を曇らせ、指を切り裂く大怪我を招きました。

金粉が目に入れば、それは「病」となる

禅の言葉に、

【金屑雖貴落眼成翳(きんせつたっとしといえども、めにおつればえいとなる)】

という教えがあります。

金粉は非常に高価で、誰もが欲しがる貴いものです。

しかし、どれほど価値があるものであっても、それが目の中に入ってしまえば、視界を遮る邪魔な異物となり、目を傷つけるものとなってしまいます。

これは私たちの「心」の在り方を鋭く突いた言葉です。

ここでいう「金粉」とは、何もお金や宝物だけを指すのではありません。

私たちが学んできた「知識」積み上げてきた「経験」、あるいは、正しいはずの「正義感」
さらには立派な「仏教の教え」そのものでさえ、それに執着し、「自分は正しい」「自分は知っている」と握りしめてしまった瞬間に、それは真実を見る目を曇らせる「ゴミ」に成り下がってしまうというのです。

私の怪我も、まさにこれでした。

「機械を使いこなせている」という経験や知識は、山を綺麗にするためには「貴い金粉」のようなものでした。

しかし、作業を急ぐあまり、その知識が「自分は分かっている」という執着に変わったとき、それは私の判断力を狂わせるものとなったのです。

「筏(いかだ)」を捨てて歩み出す

お釈迦様は、教えというものを「筏(いかだ)」に例えてお話しされました。

ある旅人が大きな河に突き当たりました。こちら側の岸は危険ですが、向こう側の岸は安全で穏やかに見えます。そこで旅人は草木を集めて筏を作り、懸命に漕いで向こう岸に渡ることができました。

無事に渡り終えたとき、旅人はこう思いました。

「この筏は本当に役に立った。これがあったから命が助かったのだから、肩に担いでこれからも歩いていこう」

これから山道を歩いていこうとする旅人にとって、重い筏を担いで歩くことは、助けになるどころか足枷になるでしょう。

お釈迦様は「正しい教え(法)でさえ、いつまでも執着してはいけない。」と説かれました。

私たちは、一度手に入れた成功や、人から褒められた経験、あるいは自分が正しいと信じている価値観を、なかなか手放すことができません。

しかし、状況は刻一刻と変化しています。昨日の「正解」が、今日の「間違い」になることもあります。

過去の栄光や「こうあるべきだ」という知識を大切に抱え込みすぎると、私たちの心は重くなり、今この瞬間に起きている現実をありのままに見ることができなくなってしまいます。

「今」をまっさらな目で見つめる

仏道という「金粉」であっても、それにこだわれば妄想に変わる。

ましてや、私たちの日常にある小さな思い込みは、いかに脆いものです。

私たちは、日々たくさんの「金粉」を集めて生きています。
仕事の経験、育児の経験、人付き合いのコツ。それらは生きていく上でとても大切なものです。

しかし、それを「自分の手柄」として握りしめ、他者を裁く基準にしたり、「もう分かっている」と慢心したりしたとき、私たちの視界は真っ暗になってしまいます。

怪我をした私の指は、癒えてきましたが、あの時の激痛は「お前は本当に今を見ているか?」という痛烈な一喝であったと感じています。

「知っている」を捨てて、「今」を新鮮な気持ちで受け止める。 過去の成功という「筏」を岸に置いて、軽やかに次の一歩を踏み出す。

皆様の日常の中にある「金粉」が、目を曇らせる「翳」にならず、人生を豊かに彩る光となるように、執着をそっと手放し、まっさらな瞳で今日という日を見つめていきたいと思います。

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