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住職のまっすぐな言葉と、寺嫁のまあるいイラストで、今日が優しく調う、ほっとする時間をお届けします。

雨が降ったら傘をさす ただそれだけ 
無事是貴人 (ぶじこれきにん)】

まっすぐな子どもたちと、計算してしまう大人

私は事務方として、東光寺の敷地にある袖師保育園で勤務をしています。

そこでは、毎日のように小さな子供たちの姿を見ることができます。

彼らは、本当にきらきらと輝いています。
全てのことに全力です。

成功すれば精一杯に喜び、失敗すれば精一杯に悔しがり、悲しければ精一杯に泣く。
美しい心を丸出しにする姿にはいつも感動させられますし、彼らの姿を見ていると、本当にたくさんのことを学ばせてもらえます。

しかし、小さな子供たちの姿を見ていると、時々自分を含めた大人の姿の見苦しさが嫌になることがあります。

損得を考え、策略を練り、自分さえ良ければよいという美しくない心を丸出しにしながら、日々を送ってしまっているのではないか。ついつい、「子供は素晴らしいけれど、大人はダメな存在だ」と思い込んでしまうことがあるのです。

廊下に落ちていたゴミを前にして

しかし、素晴らしい大人もたくさんいます。

私が今でも「素晴らしい」と感じている大人の姿があります。

それは、同年代のある和尚様と一緒に歩いている時のことです。
その時は、大きな法要の準備を手伝うために、あっちへいったりこっちへ行ったりとバタバタしていました。
仕事が一区切りついて、次の作業をするために移動をしていた時のことです。

ふと前を見ると、廊下にゴミが落ちていました。
私は手前の少し離れたところからそのゴミを認識しました。

そして、頭の中でいろいろなことを考え始めました。

あのゴミを拾った方がよいだろうか。

拾ったらどこに捨てようか?

ゴミ箱は少し遠くにあるな。拾っていたら次の作業がおそくなってしまう。

などと、あれやこれやと考えているうちにゴミが近くなってきました。私の中ではまだ結論は出ていません。

すると、一緒に歩いていた和尚様が、すごく自然な流れでスッとゴミを拾い、ご自分の持っていたカバンに入れたのです。

私は、その和尚様の無駄のない動き、そして、迷いなく落ちていたゴミをカバンに入れる動きに驚きながらも感動をしました。
と同時に、あれやこれやと考えていた自分の姿がたまらなく恥ずかしくなりました。

造作を捨て、ありのままに生きる

禅語に、

【無事是貴人 (ぶじ これ きにん)】

という言葉があります。

外に向かって求める心が消え、無用なはからいもなくすことの大切さを伝える教えです。

分別心を断ち切り、一切の作為を離れて、あるがままに振る舞えば、内なる仏の本性のはたらきが現れることを表しています。

この言葉について、山田無文老師は次のように説かれています。

みんな細工が多すぎていかん。無造作にならんといかん。造作が多すぎる。悪いことをしては造作をし、それを繕おうとしては造作をする。自分で自分を縛り上げていくのだ。ありのままに、馬鹿は馬鹿のままで、まっ正直に、飾り気なしに、自分の欠点を丸出しにして生きて行くやつが、無事是れ貴人だ。

また、

神を求め、仏を求めるのは仏だからである。自分の仏性を忘れ、どこぞに仏があるうなぞと求めて歩くのは、とんでもない勘違いだ

と厳しく指摘されています。

先ほどの廊下のゴミの出来事で言えば、頭で「拾うべきか、どうするか」と細工をめぐらせていたのが私です。対して、目の前のゴミに対して無心でスッと体が動き、そのままカバンに入れた和尚様こそが、一切のはからいを離れた「無事」の姿でした

思い通りにいかない出来事という「雨」が突然降ってきたとき、どうするか

この「無事」の境地、自然な振る舞いについて、強く心に残っている言葉がもう一つあります。

2020年、コロナウイルスの感染拡大により、多くの行事が中止に追い込まれました。
日本各地で開催されてきたお寺の坐禅会も例外ではありませんでした。

当時の私は「なんとかして坐禅会を続けたい」という、自分自身の執着に囚われていました。あわよくば隠れて開催してしまおうかとも考えていたほどです。

そんな中で、臨済宗円覚寺派の管長である横田南嶺老師のオンライン対談を拝聴する機会がありました。

老師は、坐禅会の休止を決めた際の心情をこう表現されました。

「雨が降ったら傘をさすでしょう、それと同じような気持ちで坐禅会の休止を決めました」

雨が降ったら傘をさす。

当たり前のことを自然に行動に移せる老師の柔軟さに感動したのです。

晴れの日には晴れの日の、雨の日には雨の日の過ごし方があります。

無理に雨に抗うのではなく、素直に受け入れて傘をさす。その「こだわりのない心」こそが「無事」の姿なのだと教えていただきました。

子供は素直な心で動くことができます。
大人は、知識や経験があるがゆえに、あれやこれやと考えて動くからぎこちなくなってしまうことがあります。

私たちは、もう一度子供の心に戻った方が良いのかもしれません。
では、どうするのか。

それは、頭で考える前に自然と身体が動くまで、日々の訓練を続けるしかありません。
あの時の和尚様のように、無心でゴミを拾うのもその一つです。

私たちが生きていく上では、思い通りにいかない出来事という「雨」が突然降ってきます。

そんな時は、焦ったり天気を恨んだりするのではなく、良いと思ったことを素直に実践する習慣が必要なのです。

幸いなことに、すでにその習慣の道筋を、先人たちが残してくれています。
外に特別な何かを求めるのではなく、今ここにある日常の中で、良いと思ったことを素直に実践していくことを、これからも心がけていきたいと考えています。

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