今日を調えるやさしい仏教 ~絵はがき法話~バナー

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住職のまっすぐな言葉と、寺嫁のまあるいイラストで、今日が優しく調う、ほっとする時間をお届けします。

その苦労が 自分の力になる
【刻苦光明必盛大也(こっくこうみょう かならず せいだいなり)】

涙があふれた修行の記憶

修行中、私は泣きました。それも、ボロボロと。

理由は、叩かれたからです。
坐禅の時に、僧侶が持って歩いている、「警策(けいさく)」という名の、あの木の棒。

あれで背中をパーン!とやられた瞬間、涙腺が崩壊してしまったのです。

一応言っておきますが、めちゃくちゃ痛いです。痛くないわけがありません。
でも、私が泣いたのは、決して痛かったからではないのです。(もちろん、痛いには痛いんですけど!)

じゃあなんで泣いたのか。
その瞬間は自分でも「え、なんで自分は泣いてるの?」とパニックだったのですが、あとから必死に考えて、ようやく点と点が繋がりました。

私の幼少期のトラウマと、ある禅の教えが、ピタッと合わさったのです。

太ももに錐(きり)を刺しながら坐禅をしたお坊さんの話

禅語に、
【刻苦光明必盛大也(こっくこうみょう かならず せいだいなり)】
という言葉があります。

厳しい修行に苦しみ抜いた末に、比類のない輝く成果を手に入れる。
激しい努力は素晴らしい結果をもたらすということを教えてくれる言葉です。

昔、厳しい寒さの中で徹夜の坐禅をしていた慈明楚円(じみょうそえん)というお坊さまは、強烈な眠気と闘うため、自らの腿(もも)を錐(きり)で刺しながら坐禅を続けたと伝えられています。この言葉は、そんな慈明禅師の座右の銘とされています。

いや、私とはストイックの次元が違いますよね。

こんなことを今の時代に要求したら、一発で「それパワハラです」と問題になりそうなお話です。

「若いうちの苦労は買ってでもしろ」なんて、人に押し付けられたらただの理不尽でしかありません。

でも、直面した苦労から逃げずに「よし、やってやろうじゃないか」と自分なりに意味を見出して乗り越えた時、それはいつか自分を助けてくれる、とんでもない財産になります。

「情けは人の為ならず」と言いますが、厳しい試練を自分の糧として受け止めた経験は、確実に自分の力になっていくものです。

「監視」が「見守り」に変わった瞬間

私が警策で叩かれて泣いたのは、まさにその「理不尽な苦労」の本当の意味に気づけたからでした。

私は、村に一軒しかないお寺の子供として育ちました。
だから、小学生の私が帰り道でちょっとでも悪いことをしようものなら、私が家に帰り着く前に、親の耳に情報が入っているのです。
「え、私に盗聴器でもついてるの?」
と本気で疑いました。

光の速さで伝わる連絡網…

子供心に、「村じゅうの大人から監視されている」と感じて、お寺の子に生まれたことを呪ったこともあります。

でも、大人になって修行させていただき、警策でパーン!と打たれたあの日…

実は、その時私に警策を与えてくれたのは、普段は優しくて、いつも私に丁寧に接してくださる先輩でした。
もし、いつも怒ってばかりの怖い人に力いっぱい打たれていたなら、「痛っ!なんだよ!」と反発していたと思います。

でも、いつも優しい先輩が、その時ばかりは渾身の力で、厳しく私を打ってくれたのです。

その痛みの奥から、「しっかりしろよ!」という、熱いエールが飛んできた気がしました。

私のことが憎くて叩いているんじゃない。私のことを本気で思ってくれているからこその、あえての厳しい一撃だった。

だからこそ、その瞬間、あの幼少期の記憶がよみがえってきました。

「悪いことをすると、すぐ親に連絡がいく」

ずっと監視カメラだと思っていた村の人たちの目は、実は「見守りのまなざし」だったんだ。私が道を踏み外さないように、みんなが気にかけてくれていただけだったんだと。

「監視されていたんじゃない。ずっと、あたたかく見守られていたんだ」

そう気づいた瞬間、頭で考えるより先に体が反応して、ボロボロと感謝の涙がこぼれ落ちていたのです。

負荷は負担ではない、という気づき

今回の絵葉書に描かれているのは、

お不動さん(不動明王)です。

めちゃくちゃ怖い顔をしていますが、十三仏信仰の中では一番最初の仏様で、大切な人が亡くなったあとの

「初七日」の法要を見守ってくださる、

実はすごく優しい存在なのです。

~十三仏信仰とは~

大切な方が亡くなった後に行われる13回の追善供養(法事)の際、故人を守り導いてくれる13体の仏様をお祀りするものです。
仏教が中国を経て日本へ伝わる際に、仏教の教えと日本の習慣が合わさった独自の仏教思想です。

大切な人を亡くすという悲しみや喪失感は、言葉にできないほど辛いものです。

心にかかる重圧は、本当に苦しいものです。

でも、その悲しみは、

心に強い「負荷」をかけているけれど、心を完全に押し潰してしまう「負担」ではない

、と捉えることができたとき、私達はとても大切なことに気が付ける気がします。

悲しみというダンベルで私たちは強く優しくなれる

筋トレで重いダンベルを持ち上げると筋肉がつくように、心にかかる強い負荷もまた、いつか人を強く、そして誰よりも優しく育ててくれることがあります。

怖い顔をしたお不動さんが、本当は深い愛情で見守ってくれているように。

普段優しい先輩がフルスイングで打ってくれた痛い警策に、あたたかい励ましが隠れていたように。

目には見えなくても、全力で見守ってくれている存在は絶対にあります。

亡くなった大切な人たちも、残された私達の今の姿を、ハラハラしながらも、あたたかく見守り、応援してくれているはずです。

悲しみという大きなダンベルを抱えながらも、自分のペースで、一歩ずつ、進んでいけばいいのです。
その先には絶対に、あたたかい明るい光が差し込んで、これまでの苦労が、自分自身を支える最強の力になってくれるはずですから。

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