
ページを開いて、『読む深呼吸』をしませんか。
住職のまっすぐな言葉と、寺嫁のまあるいイラストで、今日が優しく調う、ほっとする時間をお届けします。
安らかな心は 昔から私の中にあった
【涅槃妙心 (ねはんみょうしん)】

イライラしながらの坐禅…
東光寺(静岡市清水区横砂)では、小学生の長期休暇に「子供坐禅会」を開いています。
参加してくれる子供たちは、毎朝7時30分から、それはもう真剣に坐禅と向き合ってくれています。
以前、その坐禅会の最中に事件が起きました。
お寺の外から、大人たちの大きな話し声が聞こえてきたのです。
もちろん、坐禅会の参加者ではありません。
ここで坐禅をやっていることなんて一目瞭然の距離なのに、容赦ないボリュームで談笑しています。
正直な話、私はその時、
「ちょっとちょっと、こっちは坐禅中なんですけど! 少しは配慮して静かにしてくれませんかね!?」
と、内心イライラしながら坐禅をしていました。
坐禅中の呼吸の調え方に「数息観(すそくかん・すうそくかん)」というものがあります。
吐く息を心の中で「ひとーつ、ふたーつ」と数え、「とお」まで数えたらまた「ひとつ」に戻ります。もし雑念が浮かんでも、さっと手放して呼吸に意識を戻すのが基本です。
しかし、その時の私の頭の中はというと……。
ひとーつ。
ふたーつ。
いや、ザワザワうるさいな。
こっちは一生懸命やってるのに。
子供たちがかわいそうじゃないか。
ほんと大人は嫌だ、すぐ騒ぐ。
騒ぐと言えば、そういえばこの前も・・・
はい、完全にアウトです。
呼吸を数えるどころか、外の騒音に心を持っていかれ、モヤモヤとした煩悩のキャンプファイヤーを盛大に燃やしてしまっていました。
予想の斜め上をいく、子供からの返答
坐禅会が無事に終わった後、私は一人の参加者に
「大人がうるさかったけど、よく集中できていたね」
と声をかけました。
すると、子供からは予想の斜め上をいく言葉が返ってきたのです。
「警策(けいさく:和尚が持っている、背中や肩をたたく木の棒)で叩かれたくて、和尚さんがどこを歩いているかずーっと集中して探してたから、外の音なんて全然気にならなかった!」
「え、そっち!?」と思わずツッコミましたが、私は後からその無邪気な言葉に考えさせられました。
「誰かが騒ぐから集中できない」わけじゃなかったのです。
「誰かが騒いでいることに執着している、私自身のせいで集中できていない」だけだったのです。
この子は、外の騒音ではなく、自分の目的にしっかりと心を置いていました。
「心の置き所」を教えられてしまった瞬間でした。
驕(おご)った気持ちに気づく
どうして私は、あんなにもイライラしてしまったのでしょうか。
後になって自分の胸に手を当ててみると、そこにはとんでもない「驕り(おごり)」が隠れていました。
「坐禅をしている自分たちの方が、外で無駄話をしている人たちよりもすごい」
と勝手に優劣をつけ、
「こっちは真剣にやってるのに」
と腹を立て、自分が集中できないのを他人のせいにしていたのです。
恥ずかしすぎて穴があったら入りたい気分です。
「涅槃妙心」という安らかな心は存在している
涅槃とは、煩悩の火がすっかり消え去った状態、つまり悟りの境地のことです。
妙心とは、言葉では到底表現できないほどに素晴らしい心のこと。
【涅槃妙心】とは、真に平和な妙なる心、私たちが本来持っている尊い仏心を表しています。
今回の絵葉書に描かれているのは、釈迦如来(しゃかにょらい)です。
十三仏信仰の中で、お釈迦様は2番目の仏様であり、大切な方が亡くなってから14日目にあたる「二七日(ふたなのか)」の法要を見守ってくださる存在です。
~十三仏信仰とは~
大切な方が亡くなった後に行われる13回の追善供養(法事)の際、故人を守り導いてくれる13体の仏様をお祀りするものです。
仏教が中国を経て日本へ伝わる際に、仏教の教えと日本の習慣が合わさった独自の仏教思想です。
二七日という時期は、お葬式などの慌ただしさが少し落ち着き、ふとした瞬間に、大切な人を失った深い悲しみや喪失感が、まるで嵐のように心に押し寄せてくる時期でもあります。
「もっと何かできたのではないか。」
「これからどうやって生きていけばいいのか。」
と心が激しく波立ち、後悔や不安に飲み込まれそうになることもあるかもしれません。
私自身、外からの些細な声に勝手に優劣をつけ、あっさりと心を乱してしまう未熟者です。
けれど、そんな私の心の奥底にも、そして、嵐のように吹き荒れる悲しみの奥にも、実は「涅槃妙心」という安らかな心が存在しているのです。
外側の出来事や、どうにもならない感情に心が持っていかれそうになった時。そんな時こそ、あの子供が教えてくれたように「心の置き所」をそっと見つめ直してみます。
湧き上がる悲しみやモヤモヤが、手品のようにすぐに消え去るわけではありません。
けれど、静かに姿勢を調え、一つ一つの呼吸に意識を向けてみると、荒れ狂う波のずっとずっと底の方には、生まれた時からずっと変わらずに存在している、静かで安らかな心があることに気づかされます。
安らかな心は、決して外から持ってくるものではありません。
ずっと昔から、私の中にあったのだと、お釈迦様の絵葉書を見るたびに思い出しています。


